出来るのが普通、の自己基準

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気付けば、「出来て当たり前」の自分基準が上がっている気がします。

先日の仕事での英語プレゼン。

85人のASPACチームの前でのオンラインプレゼン15分。Q&Aは1つのみ。

この規模の英語プレゼンは実は4月に同じトピックでやったことがあります。

その2回目なので、前回で準備の仕方や当日の本番への持って行き方が分かったので。

勿論準備はたくさんしましたし時間が掛かりましたが、

ただやってみた感想としては「なんか出来て当たり前だな」という自己評価でした。

むしろ、だからこそ後から録画を見返した時に、「自分の英語下手くそだなあ。。」と凹みました。

出来て当たり前、出来なかったら失敗、という感じになっていたのです。

ただよくよく考えてみると、この規模のプレゼンにアサイン頂けるのはあまり無いことで、ましてマネージャーでもない非管理職のポジションで2回お呼びが掛かるというのはおそらく日本からは初なこと。

初なことなのですが、あんまりその価値を感じていませんでした。

当たり前って怖いですね。自分では「すごいこと」とは全く思えず、むしろ課題ばかりに目がいった2回目でした。

次、9/2に今度は300人規模のウェビナーでこれもプレゼンを務めます。

次のほうが規模は大きいので、さすがに凄いとなるのかもしれませんね。

今日もありがとうございます。

【今日の言葉】

敗北の痛みに耐える、屈辱感に耐える、劣等感に耐える。こうしたことが、その人の精神力を鍛えているのです。

ー『鋼のメンタル』p.40

【所感】

劣等感も悪くないんですね。劣等感のかたまりな気がします。

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220819 Lev.517

Shota。

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